→@トップ
→Aインストール
→Bジャンク品
→C仕様書
→D俳句詩目次
→E最新情報
→F古稀随想目次
→G孤独老人談話室

→@トップ
→Aインストール
→Bジャンク品
→C仕様書
→D俳句詩目次
→E最新情報
→F古稀随想目次
→G孤独老人談話室

古稀随想−2

→古稀随想−1
→古稀随想−2
→古稀随想−3


 

   一アマ受験
先日申請しておいたアマ無線局の免許が来た。今度の有効期限は平成35年1月迄である。今回は早めに申請手続きをした。と言うのも、以前、締め切り間近になって申請したら、書類不備等があって懲りたからである。
 それにしても5年後はどうなっているか。77歳である。
 生きているかどうかは保証の限りではない。老人は急に病気になることがあるから、今の健康は何の当てにもならない。現に、65歳を過ぎた辺りから、友人知人から病気の話が頻繁に伝わってくる。心筋梗塞や前立腺がん、脳梗塞など立派な確たる病名ばかりである。こんな有名な病気に罹る歳になったのかなと、妙に感慨深く思う時がある。若ければ、全く無縁の病名ばかりである。
 それと、耳の方が年毎に具合が悪くなっているので、交信相手の声が聞こえなくなっているかもしれない。もっとも、その時は電信でやればいい。電信の音位は、いくら何でも聞こえるだろう。いや、全くのつんぼになっているかもしれない。5年後のことを考えるのは、もう止めよう。先のことは誰にも分からないのだから。
 最初に、局免を取ったのは確か昭和40年の秋、大学に入学した年だった。高工の電気通信科に通学していた友人が、既にJA1のコールサインをもらっていたから、私も早く取りたいと思っていた。
 大学が夏休みになると、すぐに電話級免許講習に通った。高工での講習は暑い夏の日で、今でもよく覚えている。確か10日間だったと思う。毎日、高崎駅から高工まで歩いた。途中、暑くて何度も倒れそうになったが、挫けず通い続けた。と言うのも、高校時代に体を壊し、大学に入ってからも身体はずっと具合が悪く体力がなかったのである。
 講習会が終わると、何とか金をかき集めて、9R−59 とTX88Dを購入した。 合計3万円くらいだったと思うが、当時の学生としては、血の出る大金であった。初めての交信は確か、長野県の局、諏訪湖ローカルの人だった。
 高校時代に身体を壊し、思うように勉強もできず、仕方なく地元の大学に入ったので、大学生活に何の希望も持ってなかった。だから、講義にも出ず、無線機の製作に日々没頭していた。今考えると、ちょっと勿体なかったと思う。
 しかし、教員になってからも、ずっと体の具合が悪くて年間30日も休んでいたほどだから、学生時代、何かしたとしても、結局、続かなかったと思う。アマ無線で遊んでいる位が、丁度、当時の私の体力に合っていたのではないかと思う。
 ところで蛇足だが、教員の時、年間三十日も休むと、もう書き込む欄が年休簿に無くなってしまった。それを見た中年の事務が、こんな人は初めてです、と呆れていた。
 講義に殆ど出なかったから、目の前の授業の内容が全く分からないと言う事実に初めて遭遇した。授業内容が全く分からないと言うのは、今まで一度たりともなかった。大学で初めてそれに遭遇し、分からない授業を聞くのは実に苦痛であると知った。教員になって、この事だけは役に立ったかもしれない。
 さて、その後だが、手製のキュビカルクワッドを屋根の上に上げて、21メガで海外通信をたくさんした。殆ど電信であるが。夏の夜、北欧三国からの電波かうるさいほど聞こえてきた。また近所に女子高生のアマ無線家がいて、よく交信した。ある時、その女子高生と話が弾んで、夕方の六時頃から、朝の七時頃まで交信したことがあった。
 後で分かった事だが、その交信を近所の無線仲間も、ずっとつきあって傍受していたと言うから、今思い出しても愉快である。大学生の素敵な女の子も欲しかったが、結局は相手にされなかった。講義に殆ど出ないのだから、内心、軽蔑されていた事だろう。
 さて、当時、電波形式はAMだったが、SSBが流行り始めていた。しかし、SSBはAMと違い、格段に構造が複雑で,一般の無線家には自作は到底無理だった。ところが、市内のJA1RCB局は,当時、すでに自作していた。正に天才的な人であった。しかも無線は独学だと言うから、驚きである。何でもそうだが、独特の才能を持ってる人が、この世には存在するようだ。 
 何時だったか、RCB局の家に行き、自己発振を見つけるにはどうすればいいのか、と聞いたことがあった。その時、自作の電信送信機が自己発振ばかりして困っていた。考えても対処法が見つからなかったのである。すると、RCB局が即座に答えた。
「それはですね、VFOのビートを取りながら、同時に終段のバリコンをほんの少しだけ回すんです。その時、ビート音が変化すれば、それは前段に回り込んでいると言うことになります」
 その答えを聞いて、さすがだと思った。やはり、SSBトランシーバを自作する人は、それなりの実力を持っているのだ。単に部品を集めて半田付けをすればSSB送信機は完成する、と言うものではなかった。
 ビート音が変化するのは、電気的結合が前と後で生じているという意味である。だから、自己発振してしまうわけである。こんな事を彼は本を読んで覚えたわけではないだろう。体験的に会得したに違いない。学ばずして自ら知る、これぞ、正しく天才というものだろう。
 大学を卒業して何になろうと言う展望は何も持ってなかった。不健康が心の健全さも浸食していたと思う。講義には出なかったが、それでも教員試験は何とか受かった。高校までの貯金が少しとは言え、あったからだろう。
 卒業すると、吾妻郡の僻地学校に奉職した。ところで、大学には五年いた。居た理由は何も無い。大学は四年たてば自動的に卒業すると思っていただけである。大学に何の関心も持ってなかったから、その制度すらも知らなかったのである。それで、卒業単位が4単位だけ足らないので卒業できません、と言われた時は、一瞬、意味が分からなかった。留年と決まった時にも、特に動揺はなかった。将来に予定を何も持っていなかったから、卒業を急ぐ理由は何も無かった。
 それで、五年目は暇過ぎて時間を持て余したので、数学以外の歴史の講義を聴きに行ったり、囲碁部で時間を過ごしたりした。これはこれで面白かったが、やはり留年は特別の理由がない限り、尊敬の対象ではありえないから、居心地の悪い部分があったのは否めない。
 ところで、20年に一度位、単位をもらえない夢を見ることがある。その時は夢の中で焦る。英語の単位を取ってない? 英語は得意なんだからそんな筈はない。いくら得意でも講義に出てなければ単位は出ません。目が覚めると,途端にほっとする。当時はショックも何も感じていないと思っていたが、やはり、心の底では傷を負っていたらしい。
 今でも覚えているが、講義をサボっていた統計の単位をもらいにK教授の家まで訪ねて行ったことがあった。その時、同じく単位をもらえなかった同級生Aと一緒に行った。Aを学部の講義で見かけた事は殆ど無かったから、彼も講義を相当さぼっていたようだ。それで、そんなに親しいわけでも無かったが、同病相憐れむで、一緒に行くことになったのである。
 私は統計の単位をもらっても,合計がもう足りないので留年は確定していたから、それほどの緊張感も何も無かった。まあ、もらえれば、棚ぼたと考えていた。
 確か、新前橋辺りに住んでいたように記憶している。行くと、K教授は笑顔でコーヒーを出してくれて、それから単位とは関係ない世間話をした。それが終わると、すぐにいいよ、と言って単位を認定してくれた。その後、K教授は夭折されたと何かで知った。ご冥福を祈る次第である。   
 その日は夜になると、今度は国語の教授宅に向かった。私の単位ではなく、同級生Aが国語の単位も落としていたのである。それがないとAは卒業できなかった。それで私が付き添いで行ったのである。統計の先生は単位を簡単に認定してくれたので、まず確実に大丈夫と予想していた。
 ところが、短歌の権威と言われた国語の教授は、コーヒーどころか、玄関先で仁王立ち、鋭い眼光を放ち、頑として首を縦に振らなかった。Aが、僕は卒業できないと就職も駄目になるので、ぜひお願いします、と泣き落とし戦術に出たが、全然、聞く耳も持ず、泣き落とし作戦は無効に終わった。結果、二人は留年することになった。
 帰途、Aのひどく落胆した顔は気の毒で見ることができなかった。本気で卒業するつもりで居たのだから、ショックの大きさは想像を遙かに超えていた筈である。
 とは言え、講義をサボった学生が正しく悪いのであり、どちらの教授も的確な判断をしたと言うことである。毎回、講義にまじめに出たが、生まれつき頭が悪いので、最終試験に合格できず、それで単位を落とした。と言う事情であれば、どの先生も恐らくお願いに行けば、単位をくれたと思う。講義に出なかった不良学生には,単位をやらなくても仕方ない、いや,当然だと思う。
 いや、誤解のないように言えば、それは今だから、そう思うのである。
 さて、アマ無線に話を戻そう。
 山の僻地学校では硫黄鉱山会社の寮に入った。近くの空き地にアンテナを立てて全国と交信を始めた。この頃使っていたトランシーバは、TS510というトリオの最新機であった。もちろん、もうSSBである。標高が1500メートルという良いロケーションだったから、連日、快適に世界と交信していた。
 ところが好事魔多しである。すぐ隣の部屋に入っていた校長から文句が出たのである。テレビを見ていると、雑音や変な縞模様が入る。もしかしたら、それは君のアマ無線のせいではないかと言うのである。残念ながら、その通りである。
 何とか対策を施してクレームが出ないようにしたいと思った。しかし、これほどの近距離だと、どんな措置をしても効果は期待できそうもなかった。特に、校長の持ってる安物の白黒テレビは、そもそも製品設計段階で不要輻射の電波に対して全く何の防御対策もしていないから、一層不可能なのである。
 それで、アマ無線の運用は停止となった。誠に残念であった。山の生活で楽しみは無線しか無かったからだ。しかし、校長と喧嘩する訳にも行かない。
 12月になり、初めての年末ボーナスが出たので、思い切ってカラーテレビを買った。当時、カラーテレビは相当に高価で寮の誰も所有していなかった。いや、鉱山会社全体でも居なかった事だろう。その噂を漏れ聞いた隣の校長が、ある日、のこのことやって来た。
「ほほう、これは絵はがきのように綺麗だね。こりゃいい」
 ひどく感心したらしく、テレビ画面を見つめたまま、夕方になるまで出て行こうとしなかった。やっと退散して時は、やれやれとほっとした。
 ところが、災難はそれだけで終わらなかった。その日以後、毎晩のように部屋に校長がカラーテレビを見に来る事になったのである。お気に入りの番組がある時間になると、とんとんとドアを叩いてやって来た。
「いいかな、お邪魔して」
「いえ、もう全然暇ですから、どうぞどうぞ」
 今までは学校の勤務を終えて部屋に戻れば、もう完全休養の筈だった。それが校長が引き上げるまで勤務は続くことになってしまった。カラーテレビなど買わなければ良かったと、心底、後悔した。
 一か月ほど経った頃、校長がカラーテレビを見て帰る時、ぼそっと言った。
「あの、君な、アマ無線、あれ、やってもいいよ」
 やっと、ご自分のずうずうしさに遅まきながら気づいたらしい。文句の塊のような人だったが、根はそれほど悪くない人であったかも知れない。
 翌年、鉱山が閉山になったので、北軽井沢の中学校に転任した。そこで、昔、陸軍の通信兵だった人と一緒になった。電信の和文を習っています、と私が言うと、じゃあ、それを聞かせてくれませんか、と言った。 
 翌日、テープに録音しておいた練習用のモールスを持って行った。昼休みに、私の電信練習テープをほんのちょっと聞いただけで、彼は事も無げに言った。
「この程度の速度なら、漢字交じりにして、書き取れますよ」
 驚いて思わず、彼の顔を見つめた。さすが、戦時中、命をかけてモールスを練習した人は違うなと思った。遊びとは全く違う。それで私も色々と教わって、その年の秋、長野県まで一級アマを受けに行った。筆記試験は工学、法規どちらも簡単である。元々、数学が得意だったから、簡単な無線工学は何でもなかった。
 問題は送受信五分間の電気通信術であった。当時の一アマは全国でも1000人くらいしかいなかった。と言うのも,この電気通信術が難関だったからである。
 しかし、私は練習を重ねたおかげで,何とか和文50字程度を書き取れるようになっていたので、多分、合格できると思っていた。
 送信術は難なく終わった。いよいよ来る天王山、受信術である。胸がドキドキして来た。試験前に試験官から受信術の要領説明があった。
「それとですね、書き取りはカタカナでお願いします」
 それを聞いた途端、目の前が真っ白になった。今まで、ずっとひらがなで書く練習をしてきたのである。これをすぐカタカナに変換できるわけがないと、すぐに気づいた。その日、それからの記憶は何もない。
 前橋に戻って三年くらい経った時、今度は中野高等無線電信学校で一アマに再挑戦した。今度はカタカナで練習し、80字くらいまで完璧に受信できる力をつけていた。聞き取りの五分間で一文字だけ、不明のがあった。40年近く経った今でも鮮明に記憶しているが、イとナなのか、それともンなのか、間隔が微妙で分からなかった。はっきりと聞き取れてはいた。
 試験を終えて会場を出ると、青空を見上げて深呼吸した。これで一アマに合格したなと思ったが、さしたる感動は、もう無かった。
 それにしても、長い人生でよくもまあ、同じ趣味を続けているものと,ふと思う時もある。小学四年生の時、友達が持っていたモーターに興味を抱いたのが私のラジオ少年の始まりだったから、もう60年を超える。



   給食
 先日、新聞を見ていたら、給食のおかずを食べなかった小学生に、女子教諭が無理に口に突っ込んで食べさせ、吐いた、と言う記事が載っていた。その見出しを見て、案の定、今でも少しも変わらないな、と思った。
 教員になってしばらくした頃、給食の担当になった。夏休みに給食研究会の発表があり、その会議に参加した。聞いていると、如何にして児童生徒に給食を残さず,全部食べさせるか、と言うのが主な研究課題であった。当該校の発表が終わり、質問の時間になった。
 黙っていようと思ったが、当時、私の娘が小一で、三月生まれの彼女にしては学校の給食が多すぎて食べられないと、べそをかいていた。学校に言えば言えたが,同業者にいやな思いをさせてもと、遠慮していた。そんな事があったので、大抵の会議で、いつもは黙っているのだが,珍しく挙手し質問した。
「無理に食べさせるのは良くないと思うのですが」
「先生ね、それなら給食指導は不要です。出されたものを残さず、作ってくれた給食を感謝して全部食べられるようにするのが、給食指導なんです」
 その回答に呆れたが、若かく血気盛んだった私は更に問い詰めようとした。すると、隣に居た我が校長が、「もういいだろう」と、小声で言った。その声には、こんな事を問い詰めても意味が無いよ、と言う響きが込められていた。
 もう40年以上も前の事だが、まだ覚えている。と言うのも、似たような事例にその後、何度も何度もお目にかかったからである。
 給食を残した生徒を放課後、また食べさせたとか、その子が食べ終わるまで側についていたとか、である。悪口を言うのではないが、その指導をするのは、女子教員が殆どだったと思う。困った事だなと思ったが、教諭本人は本心から全部食べる事が良い事、だと思ってるのだから、それを改めさせるのはなかなか難しい。
 それに、我が日本には、米一粒は一年かかって作るもの、それを無駄にしてはいけない、と言う思想が古来より根深く残っている。
 中学生になれば、育ち盛りで食べたくて仕方ない時期だから、この問題は、さして重要では無くなる。それに中学生になると、担任にどう対処すれば良いかも分かるから、もし、食べたくないものがあれば、隠したり、捨てたり,何とでも出来る。
 とは言え、中学生なら、全く問題ないかと言えばそうでも無い。アレルギーで食べられない生徒も居るからだ。しかし、近年、アレルギー問題はよく理解されるようになったから、それをうっかりする先生も少なくなったと思う。とにかく、気の毒なのは低学年の児童たちである。
 いやだと思ったものを強制的に全部食べさせられるのは、拷問に等しいと思うがどうだろうか。
 戦後、アメリカの進駐軍がやって来た時の逸話をある本で読んだ事がある。残念ながら、その著者名は思い出せない。
 ある少年が進駐軍の倉庫からチョコレートを盗んだ。すると、その少年を捕まえた兵隊が、そんなにチョコが好きなら、食べさせてやるよ,と言って、にやにや笑いながら、段ボールいっぱいのチョコを持ってきた。そうして、食べさせてくれた。はじめは喜んでいた少年だが,その内、満腹となると、もう食べられなくなった。 
 しかし、その兵隊は、少年がもう食べられないと泣き顔をしているのに、もっと食べろと怖い形相で睨み付けた。怖くなった少年は仕方なく、また食べ始めたが、最後には食べるよりも吐く方が多くなった。少年がゲーゲー吐きながら苦しんでいるのを、兵隊は手に拳銃を持て遊び、笑いながら眺めていた。
 ところで、個別指導なる言葉がかなり前から流行りだしていたが、この概念を利用すれば、頑迷な旧態依然の給食指導観を更正することが出来るかもしれない。
 すなわち、児童に提供する給食の量は、個々の要求に応じたものにするべきで、これこそが給食における個別指導だと主張するのである。個別指導なる、如何にもそれらしき教育用語が入っているので、頭の固い教員を納得させられるのでは無いかと、思うが、どうだろうか。
 何時だったか、現役の女子教員が、この問題に関わって発言していた記事を読んだ。
「私は、無理に食べさせるのは良くないと思います」
 うん、この教員は,問題点を明快に正しく理解しているようだ。
「無理に食べさせるのでは無く、最終的に全部食べられるように色々な手段を駆使する事が大切だと思います」
 全部食べられるようにする手段って・・・、何か、私は、ふっと微かに恐ろしい雰囲気を感じたのだが、あれは何を感じたのだろうか。
 要するに、各人間には、それぞれの事情があると言う事を,基本認識として持てれば、この種の問題は解決するのだが、そこになかなか至らないようだ。
 そこで、似た例として恐縮だが、退職してまもなく、運動不足になったので、筋トレを始めた。自宅にある50キロのバーベルを持ち上げた。しかし、二日もすると、腰痛になった。これでは駄目だと思い、しばらく後、腰痛が治ったので,今度は半分の20キロに減らした。一週間後、また腰痛、おまけに肩痛が発症。仕方なく、10キロにした。これで大丈夫と思ったが、一ヶ月後、やはり筋トレは出来ても、その日は疲れて何もする気力が起きない。これではまずい。それで今は、五キロの小さなダンベル、それも隔日でやって丁度良くなった。
 すなわち、筋トレは本人の年齢、体力に合ったものをやらないと、体を鍛えるどころか、壊してしまうと言う事である。給食の食べる量もこれと同じ事。
 どうだろうか。この例なら、かなり分かりやすかったと思うが。
 えっ、それでも駄目。うーん、そうかもしれない。
 この給食の問題は、各児童の弁当持参にすれば、雲散霧消、解決してしまうと思うが、現代の忙しい家庭事情ではそうも行かない。それにまた、弁当持参では給食指導の仕事が大幅減になってしまう。給食研究会がいらなくなってしまうかもしれない。それでは少々まずい。
 恐らく、この問題は今後も消える事無く、延々と教育現場で続いていくと思う。
似たような記事は引き続き、新聞紙面に登場し、世間を賑わす事だろう。
 何であれ、何処の職場でも、その悪しき伝統を改めるのは、極めて至難の事なのかも知れない。



   親子
 昼前、珍しくベランダに出た。空は正に五月晴れである。遙か遠く、まだ雪をかぶった浅間山が見える。眼下の駐車場には普段よりも車がたくさん置いてある。ゴールデンウィークのせいだろう。暫く遠くの景色を当てもなく眺めていると、下の駐車場に赤い車が止まり、若い男と、その家族らしき人たちが降りてきた。見ていると、近所のAさんの家に入っていった。息子さんの家族らしい。
 我が子供達からは何の連絡も無いから、今年は来ないのだろう。まあ、結婚当初は来たが、数年もすれば、段々、子供達は来なくはなるだろうと思っていた。そうして、その通りになった。老妻は黙って色々と準備をしていたようだが、願った未来は訪れなかった。
 私自身、実家を頻繁に訪れる事は無かった。毎日、勤務先に向かうのに親の家の側を通りながらも、殆ど寄った事は無かった。それは親とは折り合いが悪かった事が、大きな原因だと思う。そうで無ければ、もっと実家に寄っていた筈である。
 もう随分と前の事、私が三十代半ば位の頃だろうか、テレビで大学入試の合格発表をやっていた。キャンパスにテレビカメラを移動して、実況中継である。見ていると、悲喜交々だが、その内に、一人の受験生の姿が映し出された。彼はテレビ局のインタビューに答えていた。
「今、この喜びを誰に連絡したいですか」
「それは家族ですね。とても協力してくれましたから」
「では、ご家族の方と電話でお話をしてもらえますか」
「ええ、構いませんよ」
「それでは、この電話でお願いします」
 テレビ局の電話を手にした彼は、家族と話し出した。
「合格しました。お父さん、本当にお世話になりました。お母さん、本当にありがとうございました」
 その会話は、テレビに映し出されているからでは無いと、はっきり分かった。作り物ではなかった。普段からの良い家族関係が会話から忍ばれた。きっとお父さんもお母さんも懸命に受験生活を支えてやったのに違いない。その若者の姿は未だ鮮明に覚えている。こんな清々しい若者が日本に居たとは。こんな素晴らしい家族が居たとは。両者に誇張では無く、驚きを覚えた。あの若者はあの素晴らしい家族がいるだけで十分幸福だと思った。実に羨ましいと思った。 
 過去に良い親子関係があれば、それは将来の良い親子関係に繋がる。その逆はその逆である。

老夫婦
連休で、隣んちは息子と娘の夫婦が来てるわ。
そうか、おれんちには誰も来ねえな。
いや、前んちも同じみたい、誰も来てないわ。
前んちの息子さんは、一昨年亡くなったろ。
あらっ、じゃ、来ないのは家だけね。
そう、俺の家だけだ。寂しいな。
いいのよ、丈夫でいれば来なくても。

 五十代の頃だったか、中年の女性教諭と昼食の時間に世間話をしていた。そうして、偶々、話題が子供の話になった。聞けば、娘さん夫婦は、数年前から米国に赴任しているそうである。
「そうですか。でも、時には帰国するんでしょう」
「最初の行った年と、2年後一度かしら。後はもう来ないです」
「海外となると遠いしね。それは寂しいですね」
 すると、意外な答えが返ってきた。
「そんな事はないですよ。子供はやがて離れていくものですから、それで良いんです」
 女親としての、その確信に満ちた答えに、女性は自分で生んでいながら、意外と子供に執着しないのかなと訝った。女性というのは本当に不思議だと思う時があるが、この言葉も、正にその象徴的な言葉である。



   早起き
 最近は、ますます早起きになった。間違いなく加齢によるものだろう。 10時に寝て5時位に起きる事が普通となった。若い時は朝寝が常習だったのだが。
 昔、父親が四時頃目が覚めて、何もする事が無いと言っていた。80歳位の頃だろうか。私もその年齢に近づいてきたわけだ。
 ただ、幸いにして私は幾つか趣味があるので何とか時間潰しは出来る。アマ無線やパソコン、マイコン、英語、色んな工作、風景写真、当てもなく歩く事など。どれも大したことは無いが、まあ死ぬまでの時間潰しにはなる。
 結局、老後は如何に楽しみを見つけて時間を過ごすか、と言う事だと思う。だから、本人が良いと思うものなら、何でも良いと思う。人様に迷惑をかけないものなら。
 それと、老後は病気との闘いになるが、退職してから色んな体調不良に遭遇したが、何とか乗り越えてきた。    
 退職してから発症していた痛風もすっかり抜けきった。最近は、また以前のように食べるようになって体重も10キロ減っていたのが、半分ほど戻ってきた。もう痛風にはならないと思うので、何も気にせず、食べている。とは言え、70キロを超えると、老人の心臓が保たないと思うのでそこまで行ったら、食事制限をするつもりである。
 数年前から、時々、頻尿になることがあったが、寝る前のねじり運動、倒立で、これも克服できた。今はもう尿意で目が覚める事は無くなった。2時間から4時間で目が覚めるが、これは老人なので長時間睡眠ができないからである。 
 倒立は好きで小学生の頃からやっていたが、最近になって、寝る前にすると、寝付きが良くなる効果がある事に気づいた。恐らく、倒立で体がリラックスするせいだろう。
 要するに、ねじり運動で腎臓の血流を円滑にし、倒立で寝付きをよくするのである。
 そんなのは効く筈が無いと言う人もおられると思う。しかし、何事もサンマの頭である。効くと思ってやれば、その効果は絶大なのである。事実、頻尿に悩まされる事は無くなった。
 近所に85歳位のご夫婦が住んでいるが、さすがに早起きである。私がカーテンを開けると、もう間違いなく、部屋の電気がついている。毎朝、その灯りを見ると、思わずほっとする。
 言い忘れたが、この何の目的も無い駄文を書く事も、私にとっては、最高に楽しい時間潰しの一つである。 


   母の命日
 5月9日は母の命日である亡くなったのは1999年だから、まるまる18年過ぎた。もうそんなに過ぎたのかと思う。去る者日々に疎し、である。その内、30年、40年と過ぎて、いや、その頃には自分も居なくなっているだろう。
 母は体質的に高血圧であった以外、これと言った病気も無く、極めて丈夫な部類に属する人間だった。癌に罹った事も無い。エネルギュッシュな女性で、社交的、また絵や文章が特に上手であった。俳句もその内の一つである。もっと良い環境に生まれていれば、それなりの人物になっていたと思う。
 母の生年は、大正三年九月二十九日。父は大正三年七月十日。二人ともほぼ同じ時期に生まれた。そうして、無くなったのは母が1999年5月9日、父は2008年5月13日。9年後の同じ5月に無くなっている。
 父は大正生まれの男としては、かなりの大男だった。手足も大きく、骨は太かった。妙な話になるが、火葬場の職員が、焼いた骨を見ながら、こんなに骨が多く残る人は珍しいです、と言った。特高警察官のあと、敗戦、追放処分、その後県庁職員となった。あまり世渡りは上手では無かった。父から教わったのは柔道と辞典の引き方、それと工作法である。残念で仕方ないのは手先の器用さを受け継がなかったこと。今、私の部屋には、電工、木工、金工など、沢山の工具があるが、それは全て父の影響である。父には強く反目していたが、よく考えれば、父の所作を殆ど真似していたのである。父と息子とはそういうものらしい。
 それにしても、父の体格は是非とも受け継ぎたかったものだが、それは叶わなかった。手足は母譲りの可愛いそれである。肩と大腿だけが辛うじて父親に似たかも知れない。
 さて、実家を取り壊した時、殆どの物品を廃棄処理してしまったので、両親の誕生日の記録ですら、それを確認する資料が、今はもう殆ど無い。私もそうだったが、遺品を引き取ることは他の姉兄も殆どしなかった。その理由は遺品を引き取り、保管して置く場所が無いと言う事であった。しかし、それはやはり、両親への想いと言う事だろう。私は何一つ遺品を欲しいと思わなかった。すべて廃棄業者に任せてしまった。
 ところが、後日、我が妻が実家から色んなものを持って来ていたのを知った。母が愛用した茶器、父親の書籍類など。その中に母親の俳句の本と、母が常時携帯していた俳句をメモする手帳を見つけた。思わず手に取り、それを読んだ。そこに私は母という一人の人間の人生を垣間見た気がした。三冊の厚い俳句の本には母の句が掲載されていた。また手帳には母の肉筆で沢山の俳句が書き込まれてあった。
 他にも我が妻は父の遺品を持ってきた。父が愛用したカッター、今、私はそれを工作の時などに重宝している。また父が自作した印鑑。父は非常に工作が巧みな人で、あの精密な印鑑をよく自作していた。今、父や母の遺品を手にできるのは妻のお陰である。普段は大雑把で腕力が強く、女性らしい片鱗は皆無の妻だが、やはり女性で物に対する執着心は持っていたようだ。実にありがたい事であった。
 業者が廃棄の最終確認を求めてきた日、現場に行き、立ち会った。全部廃棄して下さい、と言ったら、業者がタンスを開けながら、勿体ないなあ、と嘆息を漏らしていたのを今でも覚えている。
 こうして改めて思い出すと、もう少し引き取り保管して置くべきだったと思う。両親のアルバムも全て廃棄してしまったから、父や母の若い時代を忍ぶものが一切無い。サーベルを手にした白い制服姿の若き父の写真もあったのだが。 
 この父母の遺品も私と妻が居なくなれば、子供達は、もうそれを引き取る事は、私同様、しない事だろう。名も無き庶民の人生の思い出は、何時かは全てこの世から消えて行くものらしい。父母もやがてはその名前、顔、誕生日も全て忘れ去られてしまうのである。それはそれで仕方ない。でも、私が生きてる限りは、父母の生誕の日は忘れ去られる事は無い。それと、このホームページがある限り。(2017.05.09)



   バイキング
 65歳を超えた辺りから色んな病気がやって来る。それが老人というものである。恐らく、私もその例外では無いだろう。今のところ、大物はやって来ていない。しかし、親父が大腸癌、胆嚢摘出をしているから、何時の日か、必ずや敵は襲来するであろう。
 さて今日は、三ヶ月に一度の検診日であった。
 血液検査の結果を見ると、案の定、肝臓の数値が悪くなっていた。でも、上限をわずかに超えた位だから、そうひどく心配するものでも無いだろう。肝臓の数値が悪くなったのは去年の冬が人生初めてのこと。一ヶ月後には正常に戻ったが、原因は不明。今回で二回目。
 今回の原因は明快である。四月初め、夫婦で東京のホテルで食い放題を経験し、それを契機に、我が妻がバイキングファンとなり、以後、あちこちのバイキングに行ったからである。行くと、どうしても食べ過ぎてしまうのである。
 その結果、一か月足らずで四キロも太ってしまったのだ。短期間に太ったから肝臓が悲鳴を上げたらしい。
 食い放題のバイキングに行かなければいいのだが、我が妻に言われると、意志薄弱の故、つい行ってしまう。
 我が妻は元々、大食いであった。若い頃から、私と同じ量を食べていた。ある時、「そんなに食べて大丈夫」、と心配したら、途端に、真顔になって、「あたしが食べて何か悪いんかい?」と、睨まれた。それ以来、どんなに食べても黙っている。
 結婚当初は、運動選手でスリムだったが、末の娘を産んでからは、相撲取りになった。偶に、同じ位太ってる人を見て、私が、「あの女性はすごく太ってるなあ」と言うと、「あたしは、あそこまで太りたくないね」と言う。本人は余り太っていないと思ってるようだ。しかし、鉄のように健康である。勤めを病気で休んだ事は三十数年間で一度も無かった。そもそも、退職するまで風邪を引いた事が一度も無かった。驚異的である。私とは正に対照的であった。
 それはともかく、伴侶が健康であるのは本当にありがたい事である。この歳になると、それをしみじみと感じる。
 さて、肥満は大病の元と言われるので、私自身は、今後、70キロは超えないようにしたい。



   高校時代
 前にも書いたが、卒業に4単位足らず、留年する事が確定的になったので、母親にそれを話した。どんな反応があったか、全く記憶していない。ところが、一月ほど経った時、驚いたことにA教授が私の所に来て言った。
「君のお母さんがご挨拶に見えられてね、恐縮しました」
 母親はA教授にお願いに行けば、何とかなると思ったらしい。A教授の単位は取得していたから無駄な事であった。やはり、息子が留年したのはショックだったらしい。
 私に言わせれば、そんな事する位ならば、高校時代に夕食の用意を毎日、してくれていればなあ、と思った。私の高校時代、夕食時、母親は毎日どこかに出掛けていて、七時頃に夕食の用意がされる事は一度も無かった。空腹ではとても勉強するどころでは無い。ましてや食い盛り育ち盛りの高校生である。それが積み重なって私はとうとう健康を失ってしまった。以来、ひどい胃炎が続くようになった。
 当時はコンビニもないし、また貧乏家庭であったから、いや、戦後のことだから、何処の家も貧乏だった。外食とか、パンを買うお金も無かった。これでは万事休すであった。
 あの時、ご飯さえ用意してもらえれば、もっと良い成績がとれたと思う。そうすれば、良い大学に入り、留年する事も無かったかも知れない。(笑)
 息子が大学受験なのに、何の協力もせず、いや、それどころか、足を引っ張り続け、毎日、婦人会の会合とかで出歩いて居たのである。実に困った母親であった。
 最近、東大理三に四人の子供を合格させた母親の記事を読んだが、子供が受験勉強している間は、寝なかったそうである。色々と事細かに援助したとある。まあ、これほどの事までしてくれなくても、夕食のご飯位は煮ておいてもらいたかった。そうすれば、あとは梅干しでご飯を食べる事が出来たのだから。ご飯を自分で煮れば良かった? 当時は薪を燃やすか石油コンロで火を焚き、ご飯釜で煮ていたから、高校生の私にとてもそこまでは出来なかった。
 まあ、この事の根底には母親と私が、相性が悪かった事が全てである。母親とすれば、可愛くも無い息子には協力も何もしたくなかったというのが本音だろう。だから、食事の用意さえもしなかったのである。
 とは言っても、息子の留年はやはり寂しかったのだろう。それで、母なりに考えて教授のところに行ったのだろう。それはしかし、全く無駄で意味のないことであった。未だに、この唐突な母の行動は理解できない。唯一、理解できる要素があるとすれば、息子の留年が彼女自身の不名誉だと思った故かも知れない。
 ずっと以前は、こんな母親をひどく憎んでいたが、還暦を過ぎた辺りから考えが少しずつ変わり始めた。母としては兄を気に入っていて、やがて兄と同居し、それで人生は全てうまくいくと思っていたのだ。だから、弟のほうはどうでも良かったのである。
 昔は長男が御大事で長男以外は厄介者である。自分たちの老後の面倒を見てくれるのは、長男である。それ以外は特に重要ではない。
 ところが、母の予定は狂った。その長男は同居しなかった。それで死ぬまでの世話は私がしたのである。母親の人生設計は全く予想外のものとなった。
 とんでもない母親だとずっと思っていた。しかし、古希を超えると、母親に対する私の考えも更に大きく変わった。もし、私が母親の立場であったら、私にどのように接しただろうか。答えは、母親と同じかもしれない。反抗的で気に入らない子供に協力はしなかっただろうと思う。普通の人間とはそんな程度だと思う。だから、母親を責める気にはなれない。普通の人間とすれば、当然の行動をしただけなのである。
 古稀を過ぎた今、母は戦時中、アメリカの飛行機から落とされる爆弾の雨の中を生まれたばかりの私を抱いたまま、必死に五キロも走り続け、私の命を守った。だから、それで全ては帳消しであると思っている。それで充分である。母を憎む理由はもう何処にもないのである。
 それに戦後間もない頃、どの家も貧乏であったから、栄養失調や不衛生で子供を死なせた家庭もかなりあった。私を死なせずに育ててもらっただけで、私は母親に感謝したいと思う。
 親と子の関係は様々である。親子と言いながらも気の合わない関係も世間にはたくさん見受けられる。古稀の知恵は、それは人間である限り、仕方のない事と教えてくれた。 親思いの立派な子供も世間には居るようだが、それはその親自身が特に立派だったのだろう。聖人君子でない親から生まれた子供は、やはり聖人君子ではない。お互い、聖人君子でなく、ただの俗人なのだから、母親の様に子供の面倒を見ない親がいても、私の様に親を憎む子供が居たとしても、それはごく自然の現象だろう。
 ところで、期待した新薬フェブリクは私の体質には合わなかった。肝臓機能を低下させ、尿酸値を低下させる薬だが、副作用がひどすぎた。怠くて、ここ一週間、何も出来なかった。腎臓に負担は軽いらしいが、肝臓を駄目にしては元も子もない。 
 さて、フェブリクの後遺症で少し茫然としているが、親子関係の考察は、もうこれで十分としよう。



   モーターとの出会い
 今朝の新聞を見ていたら、同級生I君の訃報があった。じっと名前を確認した。彼に違いない。彼こそが私を無線の道に誘導した友達だった。
 小学生の頃、それは四年生位だったろうか、彼が学校に小さなモーターを持ってきたのだ。一目見て、私は好奇心を掻き立てられた。乾電池で何も無い空間を回り続けるモーターが不思議でならなかった。
 それから、彼の家に遊びに行くと、色んなおもちゃがあった。私が壊れて使えないのを欲しいと言うと、彼は快く渡してくれた。模型の電車を動かしていた比較的大きなモーターももらった事がある。それを家に持ち帰り、修理したりして遊んだ。
 中学に入る頃には、I君はもう電気のおもちゃには興味を失ってしまったようだ。だから、それ以後は彼と接点を持った記憶は無い。私の方はますます電気に興味を持ち、ラジオの本を買ったり、製作したりして、とうとう無免許の電波を出すようになった。
 I君とは興味が違ってしまったので、中学時代、交友は無かったが、それでも会えば、小学校からの友達だから、親しい挨拶を交わしたものだ。
 最後に会ったのは何時だったろうか。三十代の頃かも知れない。彼が大きなオートバイを運転してきたのに出会った。それが何処だったかは思い出せない。彼は大きな体をしていて、当時、100キロ位はあったと思う。オートバイの方が小さく見えたものだ。そこで立ち話をしたのが最後だった。市の方に勤めているとのことだった。
 彼は相当に太っていたから、その辺から健康を害したのかも知れない。71歳は、今の時世では若すぎるだろう。せめて80歳の坂を超えたいものだ。
 同級生の訃報に接する度に、我が人生もいよいよホームストレッチに突入したな、の感が強い。ゴールまではもう目の先かも知れない。なるべく遅く走りたいが、天命だから、どうしようも無い。これから訃報欄に多くの名前を見ることになると思うと、何とも言えない辛い気持ちになる。そうして、いつの日か、私の名前もそこに掲載されることになる。もう神様の手帳には、その順番が書かれているに違いない。
 それはアイウエオ順なのか、それともアルファベット順なのだろうか。少し考えてみたが、どちらの順でも似たようなものだった。そうか、既に、そういう年齢に達したということか。でもまあ、元気を出して生欲(性欲)を失わずに、何事にも興味をもって、老後の一日一日を逞しく生きていこう。

  合掌  モーターをくれたI君。



   私の天使
 誰であっても、その人生に於いて、何度かは、ひどく苦しい場面や絶望的場面に遭遇するものだろう。私も幾度か、一本負け確実の場面に遭遇したことがある。その最大のものは、さすがに、このホームページに書くことは出来ない。十分時効だとは思うが、それでもまだ書くのは躊躇われる。なので、それ以外のものを書き留めておく。
 50歳位の時だと思うが、人付き合いの関係でひどく疲労し、生きる気力を失った。死にたくなったが、何があっても自殺はしないという信条だったから、よろめきながらも生きていた。ある日、自室で本棚を何気なく見ていると、大学の時の名簿が見えた。薄いもので本の間に挿し込んでおいたらしい。
 ふと見る気になり、無心にページを捲っていると、一人の女子学生の名前が目に飛び込んできた。あまり大学には行かなかった私だが、この女の子には何か安心感と淡い好意を抱いていた。絶望に負けそうになってる今の私に援助の手を差し伸べてくれる人は誰もいないが、この子は、もしかしたら、助けてくれるのではないだろうか。
 確たる信念は何も無かったが、そう思った。しかし、卒業して30年近くも過ぎていて、その間、一度も会っていない人である。しかも県外に居住していたから、そんなに簡単に来る筈はない。それでも、当時の私は藁をも掴むという心理だったに違いない。
 どうやって電話して、どんな話をしたのか、覚えていない。いくら考えても、もう思い出すができない。ともかく、必死の思いで話をしたのだろう。
 ともかく、その電話で、彼女は「行きます」と言ってくれたのだ。
 本当に来てくれるのだろうか。常識で考えれば、来る筈はなかった。来ることが彼女に何か利益をもたらすだろうか。何も有りはしない。彼女と逢う日まで、私は不安と期待の中で悶々とした。来てくれればよいが、もし、彼女が来なかったら、私は更にひどい絶望感に襲われて立ち上がることも出来なくなってしまう。そんな結果になるなら、私はあんな電話などしない方が良かったことになる。そうだ、この電話はしない方が良かったのだ。自分の浅はかな行動を何度も悔やんだ。
 最初にどこで待ち合わせたのか。いくら考えても、それを思い出せない。何処か市内で待ち合わせたのだろう。それから、水沢神社までそれぞれの車で行ったのは覚えている。久しぶりに見る彼女は学生時代とほとんど変わっていなかった。
「学生時代と同じだね」
「あたしたちの年になると、もう体の線を維持するだけでも大変なのよ」
 色々と話をしたと思うが、ほとんど思い出せない。話よりも、私とすれば、待ち合わせの場所に彼女が来てくれた事が全てだったのだ。彼女の姿を見ただけで、私はもう生き返っていた。
 人はひどい困難に遭遇すると、とにかくそれを撃破しようとして頑張るものだ。そんな時、ほんの僅かでも援軍がいれば、思いのほか、簡単に敵を打ち破ることができるものだ。ほんのわずかの援助があれば十分なのである。
 水沢うどんを食べて、暫く話していると、本当に学生時代に戻った気分になった。
「よく来てくれましたね」
「川嶋さんは、私にとって特別の人なんですよ。そうでなければ、電話一本で来ませんよ」
 そうか、この世に自分のことを思ってくれる人がいたんだ。ならば、これからも何とか頑張って生きて行こう。
 何か彼女を思いきり、抱きたくなった。それを言うと、彼女は、それは駄目です、とはっきり言った。自分の家庭を大事にしている姿勢を強く感じた。不思議なことにすぐに諦めることができた。元々、私の気持ちが性欲からではなかったからだろう。
 別れ際、車の中から差し出した彼女の手を固く握った。いつまでもお互い、固く握りあい、離そうとしなかった。
「この次は、いつ会えるの? 一年後? 三年後、それとも十年後かしら」
「うん、そうね、いつだろうね?」
 またぜひ、逢いたいとは思ったが、人妻である。そんなに簡単に会うわけにはいかないと思った。自分が苦悩している時には、そんなことは少しも考えず、ただ彼女に逢いたいと思ったが、普通の状態に戻れば、やはり、社会的なルールも、つい考えてしまった。
 とは言え、感謝の気持ちはあったから、その後、何度か、連絡をして会いたいとは思った。しかし、その度に躊躇し、諦めた。
 それは、まだ当時、私は若かったから、今度逢えば、男の欲望が先行して彼女を落胆させることになるかもしれないと恐れたのだ。若い時の性欲は、男なら誰でも暴走を制御する事はなかなか難しい。彼女がそれを望んでいるのなら、嬉しいが、それはどうだろうか。
 遠くから来てくれたのだから、少なくとも私に好意を抱いてはいただろう。ただ、だから、男の望みをかなえてくれるかは、また別のことだろう、と思った。そんな事で彼女に迷惑を掛ける訳には行かない。
 もし再び逢えれば 「あなたのお陰で、再び人生のトーナメントに参加する気持ちになれたんですよ。ほんとにありがとう」 と言いたかった。
 あの日から、早や20年数年も過ぎてしまった。
 今や彼女も私も古稀を超えてしまった。もう逢っても、それほどの問題も起こらないと思うが、今度は別の懸念が生じた。歳を取った彼女に会うのは些か、勇気が必要だと思った。いつまでも若く綺麗だった彼女にしておきたいからである。それは男の勝手な望みではあるが。
 古稀を越せば、もう後は、あっと言う間の人生である。遠く離れているからお互いの死を知ることすらもないだろう。



   冊子
 退職した何人かの先輩から冊子を頂いた事がある。中身はご自身の回顧録である。しかし、もらっても大抵は、その表紙を捲る程度で最後まで読んだ事は無かった。と言うのも、皆、同じようなものと予想し、読む気が起こらなかったのである。
 今年になって、自分のホームページに随想を時々書くようになった。ふと気づくと、こうしてやってる事は、冊子にこそしないが、どうやら諸先輩と同じだなと思った。まあ、結局、誰もやることは似たようなものなのだろう。そうして、段々と老いていき、ある日、お亡くなりになるのだろう。
 本来、このホームページは電信装置の情報交換のために立ち上げたものだが、今や、アマチュア無線家の中で、電信をやる人は非常に少なくなった。また、和文をやる人は更に少ない。また和文が実用的にできる人は、更に更に少ない。
 実用的にというのは、暗記受信ができる人という意味である。暗記受信ができないと、思った通りの交信ができないから、やがて毎回同じ内容の交信に飽きてしまい、大抵は、止めてしまうようだ。それはそうだろう。同じことを毎日繰り返していたら、つまらないだけである。
 それと、大抵の人は電鍵で送信して、パソコンを使う人は希少であるから、このサイトを見る必要もない。また、本ソフトを使うには多少の工作もしなければならない。今時、自作、工作をする人は本当に珍しくなってしまった。
 以上の事情により、このサイトは殆ど意味を失った。そうであるならと、掲示板の看板を孤独老人談話室に変えてしまった。また、ここは電信装置のサイトであるから、検索で引っかかるとしても、それは非常に少ないだろう。故に、ここを訪れる人は殆ど皆無に近いから、幾分、私的な回顧録を書いても然したる支障は何も無い。それで、随想も書き出したというわけである。
 いざ、書き出したら、程よい時間潰しにもなるし、書くのも面白い。古き事でも再考すると、色々と分かることも多いから、自分のためにもなる。とは言え、これを冊子にして配布するつもりは全くない。ただ書くだけである。読者は想定していない。
 


   永井荷風
 変人奇人の代表的存在であった永井荷風みたいに生きたいと思っていたが、どうやら今の生活は自然にそうなってるようだ。
 これは、なかなか良い老後だと密かに満足している。後は好きな事をして人生を終えれば良い。まあ、年金制度が崩壊しなければ、飢え死にする事も無いだろう。
 自分がそうだから、やや型破りの人が好きである。だから、何事にも上手に対応し、世渡りの得意な人は余り好きでは無い、いや嫌いだと明確に宣言しておこう。
 さて、アメリカのトランプ大統領はすごく評判が悪いが、私は大好きである。今までの大統領とは全く違うからである。前大統領のように、演説はうまかったが、殆ど何もしなかった人とは違う。また、メディアと対決してる大統領は、アメリカ史上、初めてだろう。どの大統領もメディアとはうまくつきあって、その機嫌を損なわないように配慮してきた。と言うのも、メディアは無冠の帝王と言われるように、絶大な権力を実は有しているからである。
 日本でも麻生首相がメディアに毎日叩かれて、遂に辞任已むなきに至ったのは周知の通りである。そのメディアに勝つのはトランプさんでも容易ではないだろう。これからずっとメディアとの戦いが続く事になるだろうが、その結果は予断できない。
 とは言え、これでトランプ氏が負けると、アメリカの民主主義も危ういものとなる。正式な選挙で選ばれた大統領をメディアが否定し、メデイアの望む大統領を選任する事になるからである。それは国民の総意をメディアが否定する事と同値である。そうならないためにもトランプ大統領には、71歳という高齢が心配だが、是非とも、頑張って欲しいと思う。
 最近は、インターネットを見ていても、いわゆる嘘ニュースが氾濫している。自己陣営が有利になるように意図的にデマニュースを流している。簡単に嘘と分かるものは良いが、巧妙に仕組まれた嘘ニュースに対しては、一般国民がそれを嘘ニュースと見抜くのは至難な事である。そうして、やがてはメディアの戦略が功を奏する事になる。
 CNNは、その放送の殆どをトランプ批判に費やしているという調査結果が、つい最近、発表された。CNNも必死に違いない。トランプ大統領に負ければ、会社もつぶれてしまう恐れがあるからだ。だからと言って、意図的にねじ曲げたニュースを流すのは決して良い事では無い。しかし、そんな善悪、道徳律よりもCNN会社の存続の方が大事である。従って、これからもトランプ氏への猛攻撃は続く事だろう。トランプ氏が辞任するまでは。
 トランプ氏が自分の子供達と撮った写真を見て、初めて、私は娘と一緒に撮った写真が非常に少ない事に気づいた。思わずため息が出た。家族を大切にするトランプ氏の写真を若い頃に見てればなあ、と思った。娘のイブァンカさんを溺愛し、イブァンカさんも父を尊敬している。羨ましさを通り越して、強い嫉妬を感じた。まあ、仕方ない。過ぎてしまった人生だ。後悔するのだけは止めたい。
 永井荷風のように生きて同じように人生を終える事は、私にも出来そうだが、一つだけ出来そうにないものがある。それは遺産である。荷風は死んだ時、現金で自宅に数千万も所持していたと言われている。あの当時の数千万円である。私にはとても不可能である。年金生活で貯金は皆無、遺産などある筈も無い。
 それともう一つ忘れていた。孤独死だ。私の伴侶は元体育教師で鉄のように頑丈である。その母親は97歳まで生きた。だから、彼女が私よりも先に逝く事は到底、考えられない。多分、孤独死は不可能だろうと思う。



   アナログ式テレビ
25年位前、アナログ式テレビを二階の子供部屋に設置した。しかし地上波がデジタルになり、それ以来、全くの不要品となった。それで、何時か折を見て、廃棄業者まで持って行こうとは思っていた。しかし、何か面倒で逡巡している内に、年月が過ぎ去り、やっと昨日、廃棄業者に持って行った。
 大きな図体で26インチ位だろうか。もちろん、ブラウン管式である。若かりし頃は、これを電気屋で買い、両手で持ち上げ、二階まで階段を一気に登ったものだ。
 今回、移動させようと持ってみたが、その重い事、びくともしないという表現の方が適切であった。柔道着の帯を二本持ってきて、伴侶に手伝ってもらい、やっと移動できた。
 推定45キロ位だと思うが、もう退職以来、いや50歳位から重いものを持つ事が無かったので筋力が想像以上に退化してしまったらしい。
 学生の時は、60キロのバーベルを持ち上げることができた。また30歳位の頃は、毎朝、40キロのバーベルを10回上げていた。と言うのも、当時、ひどく強い中学生がいて、私自身も鍛えないと、その子に負けそうだったので、毎朝、トレーニングしていたのである。
 さて、廃棄業者に持って行こうと決断したが、ここからがアマ無線家であった。
 中を開けて良い部品を取り外したいと思ったのだ。と言うのも、中学生のころ、廃棄業者の倉庫に行って、貴重な部品を何度も発見した経験があったのだ。もしかしたら、このテレビの中に何か良い部品があるかも知れない。
 しかし、ちょっと冷静に考えれば、例え、大出力のトランジスタがあったとしても、それを今後、使うことがあるだろうか。それでSSB送信機を作ることがあるだろうか。いやいや、もう100%の確率でそんな事は有り得ない。72歳でトランシーバを製作できる訳が無い。部品など取っておいてもゴミになるだけである。それは頭では百も承知だが、どうしても中を見たかった。アマ無線家の業である。
 それで、猛暑の中、ご苦労様にも電動ドライバーや、ニッパーを持ち出して解体を始めた。見ると、古い時代に作られた割には、かなりICが使われている。また一部にはマイクロチップも見える。二時間位掛けて解体したが、結局、得られたものは三個のLEDと四個のスピーカー、二枚の基板であった。その基板にも使えそうなものはトランジスタ位か。電解コンデンサ類は半分は駄目だろう。しかしまあ、これでアマ無線家としての気は済んだ。
 解体を終えて、これを車に積み込むまでが、また一苦労であった。一階の玄関に下ろすのに二人がかりでやっとの思いだった。
 廃棄業者の所に行くと、20代半ばの若い男が忙しく働いていたが、ここはぜひ、運搬を手伝ってもらうの最善である。それを男に言うと、忽ち一人で運んで行ってしまった。見ていた老夫婦は言葉も出なかった。
 人間というのは予想以上に早く、日常の環境に順応してしまうものらしい。そのエピソードとして、ピアニストの話は特に有名だが、先日、亀田興毅氏の素人相手の試合でも、それを知る事が出来た。一年もトレーニングをしないでいた亀田氏は、試合前、素人相手でもすごく緊張し、夜、眠れない事があったと言う。元世界チャンピオンが、である。やはりプロ故に、トレーニングをしなければ、実力がすぐに落ちてしまう事を身をもって知っていたのだろう。
 それにしても、あの重いテレビが72歳の老いを、いやと言うほど教えてくれたのは、実に腹立たしく、また、ほんの少し悲しくもあった。もう青年では無かった。



   母と猫
 私の母はひどく猫好きだったが、不可解な人でもあった。
 いつ頃からか分からないが、近所の野良猫達のために毎日、庭先に餌を置いていた。「猫だって生きものだよ。食べるものが無いと可哀想だろう」
 私が小学生の時、それこそ十数匹の猫が毎日、入れ替わり立ち替わり、我が家の庭先にやって来た。その内、特に人懐っこい茶虎が住み込みとなった。名前は、コゾ、雌である。何でこんな名前を付けたのか、全く不明。コゾが子供を産んで、三毛猫が生まれた。黒が勝っていたので、クロと名付けた。
 雌猫のクロは、それから十数年も生き、我が家の座敷で何度もお産をした。いよいよ産む時になると、母の側に行き、何か合図をしたらしい。そうすると、母がボロ布で御産のベッドを座敷に設えた。すると、クロはもう大喜びで、その中に入った。側で見ていると、すぐにクロの御産が始まった。それは何度見たか、分からないほど沢山の御産をしたと思う。
 だから、猫の御産の様子については、私は相当に詳しく知っていると自負している。普通、生まれて来るのは四匹である。産道から出てきた時は、皆、ビニール袋みたいなものに入っている。それを母猫が噛み破って出す。それから、臍の緒を噛み切る。次に、生まれたばかりの子猫の全身を丹念に舐めて綺麗にする。それが終わると、また次の子を産む。そうして、また同じ作業を繰り返す。四匹目で終了となる。暫くすると、後産になるが、出てきた胎盤は間髪を入れずに母猫が食べてしまう。此処までで一応、御産の作業は一段落である。
 ここで母猫は一休みする。御産ベッドから出ると、子を残したまま、スタスタと台所まで歩き、母が用意した御産の後のご飯を何事も無かったように食べる。猫の御産とは、よく言ったもので本当に軽いのだ。ただし、よく見ていると、子供が生まれる瞬間、偶にだが、母猫がギャッと小さく悲鳴を上げる事がある。あれはやはり、陣痛が多少はあるのかも知れない。
 台所で腹拵えした母猫が戻り、御産ベッドに戻ると、四匹の子猫たちは夢中になって母猫のおっぱいに吸い付く。これは本能のなせる業なのだろう。そうして、小さな可愛い両手で乳房の両側をこれでもか、と一生懸命揉んでいる。おっぱいが沢山出るように揉み出しているのである。まだ目は見えてないが、本能で乳首を探し当てるらしい。
 これが半月位続くと、もう子猫たちに体格差が出てくる。おっぱいの出が良い乳とそうで無いのがあるからだ。また下側のは吸い難いのかも知れない。更に、体格の良い子猫は先に吸いやすい場所を陣取りしてしまうから、他の子猫が吸えない時もある。大騒ぎして乳飲みするのだが、もう此処で生存競争が始まっている訳である。
 それから一ヶ月位すると、母猫は子猫を口に咥えて、御産の座敷から廊下の隅とか他の部屋に子猫を移動させる。家の中だから何処でも安全の筈だが、子猫を安全な場所に隠すという、猫科の動物の本能行動なのだろう。
 側で見ていると、母猫は本当によく子猫の面倒を見る。それは世の女性よりも我が子に対する愛情が深いのではないかと思うほどだ。二ヶ月位になって子猫たちが庭で遊んでいる時も、じっと遠くから子猫たちの様子を見守っている。何かあれば、すぐにでも飛び出して行く構えである。子ライオンの側には必ず、母ライオンが居るというのと同じである。
 そうして、子供がある程度、成長しすると、逆に母猫は子猫を追い払うような仕草を始める。今までの愛情からすると、ほんとに不思議な行動である。大きくなった我が子が側に来ると、唸ったりする事すらもあった。やがて、子供達が自由に行動するようになると、母猫は次の御産を考えるようになるらしい。実に自然の仕組みはよく出来たものである。
 生まれた子猫も近所にもらい手があった時代は、特に不都合は無かったが、その内、もらい手が見つからなくなって来た。雌猫は雄猫と会えれば、年に二回も御産するから、もらい手が無くなるのは、当然の成り行きであった。しかし、もらい手があろうと無かろうと、母猫は何度も妊娠してしまう。今みたいに猫を獣医の所で処置してもらう時代ではなかった。戦後のことで、みんな貧乏な時だったから。
 冒頭、私の母親を妙だと言ったのは、実は此処からである。
 ある時、四匹の子猫がいつものように御産ベッドで生まれた。それから、一週間位してからだろうか。クロが台所で食事をしていると、私の母親が紙の小箱を取り出して、その中に四匹を素早く入れると、外に出て行った。おやっ、何するんだろう? 暫くして戻った来たが、何とも言えない表情をしていた。
「子猫、どうしたの?」
「馬場川に投げてきたよ」
「えっ、捨てちゃったの?」
「ニャー、ニャー鳴いて流れて行ったよ」
 母の行動が信じられなかった。あんなに猫をかわいがっている人なのに、生まれたばかりの子猫を生きたまま、川へ放り込んだ来たのだ。以後、これは、お産の後の恒例行事となった。とは言え、それからも近所の野良猫の面倒は、相変わらず、よく見ていた。
 子猫を川に放り込むなど、どうあっても、私には出来ない。女性は自身も子を産むのだから、猫の母親の気持ちも男よりもよく分かるのでは無いかと思う。そうだとすれば、よくぞ、子投げの行為が出来るものだ。これが私の人生で、女性の残虐性に初めて気づいた時であった。
 さて、ずっと後の事だが、やはり、母が可愛がっていた猫が居た。生まれて一年半位の黒白の雄だったと思う。確か、リュウという名前だった。ある時、叔父さんがやって来た。猫が居るなら、欲しいと言った。それを聞いて母親は、可愛がっていたリュウをやるよ、と言ったのである。
 傍らで母の会話を聞いていた私は、小学生だったが、すぐに、それは無理だと分かった。もう成年に達している雄猫である。見知らぬ人に懐くはずが無いと思った。母に、それを懸命に伝えたが全く無視されてしまった。箱詰めにされたリュウは叔父さんの軽トラックの荷台に積まれた。私は、遠く去っていく軽トラックを見つめ、これから起こる運命を予測し、リュウが可哀想で仕方なかった。
 翌日、すぐに叔父さんから電話が来た。リュウは箱を開けると、すぐに畑の方に逃げてしまった、と言うのである。叔父さんの家は私の家から20キロ位離れていたから、リュウがどんなに頭の良い猫であっても、この前橋の家に戻ってくる事は不可能だろうと思った。
 それでも、もしかしたらリュウが戻って来るかも知れないと思い、よく行き来していた隣家の垣根や庭の植え込みの下など、毎日、それとなく見ていた。しかし何ヶ月過ぎても、リュウの姿が我が家に現れる事はなかった。
 それから十年過ぎても、大学生になっても、街角で黒白の猫を見かけると、リュウでは無いかと、目で追ったものである。恐らく、リュウは野良猫になり、数年間生きて、やがてある日、どこかの路地裏で誰に看取られる事なく、死んだのだと思う。
 どうして母親は、リュウが迷い子になると予想できなかったのか、今でも不思議でならない。実に簡単な事なのに。どうも、これら母の行動が、私の後々の女性に対する不信感に繋がったような気がする。特に若い女性は気まぐれで論理性が無く、物事を決定する。それにどんなに悩まされた事か。
 
 ミミーという雄猫が居た。白の茶虎である。なかなか利口な猫でドアの開閉なども小さい内から出来ていた。人懐っこくて人間の言葉を正確に理解していたと思う。雄猫だから、季節になると、一週間位姿を消してしまう事もあった。それでも、必ず我が家に戻ってきた。相当遠くまで行ったらしく、全身が泥で汚れていたり、顔にいくつものひっかき傷を負っている事もあった。それは、雌を求めて他の雄達と戦闘を繰り返してきた証拠であった。
 庭の真ん中にある桃の木の下が、ミミーのお気に入りだった。暑い真夏の午後など、毎日のようにミミーの姿を桃の木陰で見る事が出来た。当時、小学生だった私が呼べば、遠くからでも小さく鳴いて返事をしてくれた。人間の言葉がかなり分かるらしく、ほんとに利口な猫だった。
 ある日、母と何かで廊下に居ると、ミミーが庭先に現れて、私たちの方を向いて一声大きく鳴いた。何で今頃鳴くのだろうかと思った。見ていると、すぐにミミーは隣の垣根の間を潜って姿を消してしまった。それはよく見る光景だったから、その時は、特に何とも思わなかった。
 ところが、その日以来、ミミーは何処に行ったのか、行方不明になってしまった。時々、姿を消す事はあったが、それは春先とか秋に限られていた。真夏では珍しい事であった。でも、姿を消す事はよくあったので、その内には帰ってくるだろうと母も私も心配はしなかった。
 ミミーが居なくなって一週間ほど過ぎた。ある夏の朝、私がトイレに起きて、ふとガラス戸から庭先を見ると、ミミーが桃の木の下でいつもの姿勢で寝ていた。あっ、帰って来たんだと、起きたばかりの私は喜んだ。それからまた少し寝てしまった。朝ご飯を食べる前にミミーを撫でようと、桃の木の下に行った。ミミーは何処にも行かず、気持ちよさそうに寝ていた。すぐ傍まで行った時、私は何かに気付いた。ミミーは、私に気付けば、何か動作を示す筈である。ところが、その時のミミーは少しも動かなかったのである。
 目は開いていたが、動くことはなかった。すぐ側まで行くと、ミミーは死んでいた。小学生だった私は驚き、暫くは言葉も出なかった。それから気を取り直し、母を呼びに走った。母とミミーの側に行き、その体を触った。夏だというのに、ミミーの体は、もう固く冷たくなっていた。家族の誰も気づかなかったが、ミミーは何か重い病気に罹っていたようだ。猫は自らの死を知ると、誰にも見つからないな場所を探して、そこで死ぬと言う。
 姿を消す前に、庭先で一声大きく鳴いたミミー。あれはもう病気で自分の死期を知ったミミーが、さよならを母と私に言ったのだ。きっと、あれから何処か、死に場所を求めて、ミミーはあちこち彷徨い歩いたのだろうと思う。
 でも、ミミーは大好きだった我が家の桃の木の下を思い出し、幾許も無い命で最後の力を振り絞って我が家に戻って来たのだ。
 母は涙を流しながら、ミミーが大好きだった桃の木の下にミミーを埋葬した。此処なら死んだ後も、ミミーはずっと桃の木の下にいられるのだ。
 ミミーが死んで、一か月ほど経った時、近所のお婆さんが用事でやってきた。母と会うなり、庭の方を指差しながら言った。
「此処んちの家の桃の木は変だねえ。夏だというのに花が咲いているよ」
「えっ、ほんとですか」
 生け花の師範をしていた母はとても信じられないと言う表情を浮かべた。それを見てお婆さんが手で行こうと誘った。訝りながら母と私が桃の木の所に行くと、お婆さんの言うとおり、確かに桃の花が幾つか咲いていた。ミミーは死んで居なかった。ミミーは天国から桃の花になって、懐かしい我が家に帰って来たのである。



  私と猫
 母親の影響で私も猫は好きな方に違いない。時々、公園などで野良猫に会った時、私が手招きをすると、見も知らぬ私に、かなりの確率で野良猫が寄って来る。これは猫も猫好きな人間を知っているからである。
 車で10分位の峰公園は退職後の私の散歩場所となった。それ以前は殆ど訪れた事はなかったが、木立が多く夏でも陽射しを気にする事無く散歩できたので、いつしか定番の場所となった。
 退職して二年目位の時だったか、公園広場の排水溝に子猫が捨てられていた。四匹居たから一腹全部である。その体格からして生まれて二ヶ月位か。子猫特有の甲高い鳴き声でギャアギャア鳴いている。その中に全身まっ白の子猫が一匹居たのが目についた。捨てられてどの位か分からないが、ひどく腹が空いているらしく、それこそ死にそうな声で鳴いている。
 可哀想だとは思ったが飼うのは出来ないと思った。現役の頃は忙しく、とても動物を飼う余裕はなかった。それで、もう何十年も生き物を飼っていないので飼う自信もなかったのである。翌日からは、散歩のコースを変えて、猫が居る駐車場は迂回する事にした。見ると、つい可哀想になるからである。以後、他の猫を見る事が偶にあったが、関心を示さないようにした。ついつい、腹を空かした野良猫に目が行ってしまう自分をよく知っていたからである。
 それから、七、八年も過ぎたろうか。三月頃、ある日、私が大堤池の傍を散歩で通りかかった時、十匹ほどの猫が群れていた。ここ数年で猫が増えたらしく、此処にも猫の集落が出来たらしい。
 大きい猫もいたが、まだ三ヶ月位の子猫も数匹居た。その子猫の中に全身真っ白の猫が一匹居た。私が近づくと、殆どの猫は警戒し、身を引いて、その場を離れ始めたが、その白い子猫だけは、私が近づいても逃げようとはしなかった。
 それどころか、私がすぐ近くまで来た時、白猫は私の足元に身軽に近づくと、立ち上がったのである。これは頭を撫でて欲しいという猫語のサインである。私が頭を撫でてやると上機嫌である。次は寝転んでお腹を撫でてくれと言う。撫でると、喉を鳴らして大満足である。まだ子供の雄猫である。もしかしたら、この真っ白な子猫は、ずっと前、排水溝に捨てられていた、あの白猫の末裔かも知れない。あの白猫は、この森で生き残ったのだ。目の前の猫が孫か曾孫かは分からないが。 
 翌日、私はスーパーで買った猫の餌を袋に入れて大堤沼に行った。今日はどうだろう、居るかな。一見したところ、沼の畔の草地に猫の姿は見えなかった。折角、餌を持って来たので何とか会いたいものだ。そこで、シロ、シロと適当な名前で呼んでみた。すると、近くの草むらが揺れたかと思うと、あの白猫がバネ仕掛けのように飛び出して来たのである。それから、他の猫達も警戒しながら、ゆっくりと姿を現した。しかし、シロ以外は遠くで私を眺め、至近距離には来なかった。私は餌をとりだし、それを皿に乗せた。
 暫くすると、他の猫たちも恐る恐る、近づいてきた。皿はないから、そこら辺に餌をばらまいてやった。そしたら、どっと猫たちがその餌に群がった。やはりお腹は空いているのである。広大な公園だが、猫たちの食べ物は殆ど無いだろう。
 それからは、シロの姿を見かけ、シロシロと呼ぶと、シロは一目散に走り寄ってくるようになった。すぐに自分の名前を覚えてしまったらしい。まるで、犬のようであった。餌を与えてから、一月毎にシロは見る見る大きくなっていくのが分かった。
 シロは木の上、野原、草の斜面で過ごしている事が多かったが、いずれの時も、呼べば、脱兎のごとく駆け寄って来た。ほんとに珍しい猫であった。
 梅雨の時は大きな木の下で餌をやった。それでも雨に濡れるので、雨傘をシロに差し掛けてやった。食事が終わると、撫でてもらいたくて草の上に寝転ぶのがいつもの行動である。雨の日でも同じである。暫く撫でた後で、私が立ち上がり、バイバイをしてもシロは暫くは付いて来た。そこで、もう私は帰るから、おまえも帰りなさいと言うと、立ち止まり、私の方をじっと見ている。
 私の言う事を正確に理解できているように思われた。それで、どうしようかと迷っている風だった。少し歩いて振り返ると、シロはまだじっと動かず、私の方を見ている。それはずっと離れて、もう本当に遠くなってもシロは動かなかった。私が道を曲がり、見えなくなるまで見ていたに違いない。
 猫族の多くは、なかなか鋭い感覚を持っているらしい。ある日、呼んでもシロの姿が見えなかったので、餌やりは諦めて、いつものコースを回って帰ろうとした。車が置いてある駐車場の側まで戻って来た時、突然、道端の草むらから、シロが飛び出して来た。
 びっくりした。どうやら、私の足音を覚えているようであった。
 駆け寄ってきたシロの頭を撫でてやると、いつもの東屋までシロと引き返した。シロは大喜びで山道を振り返り振り返りしながら、いつもの餌場まで私を先導した。姿が見えなかったが、どこに居たのだろうか。最近、彼女が出来たらしいので、二人でどこかに行っていたのかも知れない。こうして、シロと私の付き合いは、初秋の頃まで続いた。公園に散歩に行くのが実に楽しかった。
 そのシロとの別れは突然にやって来た。ある時、用事で暫く公園に行けなかった。一週間後、いつもの様にリュックに餌を詰め、腹を空かせているだろうと思い、急ぎ足で大堤沼に行った。すると、辺りの景色が一変していた。
 鬱蒼と茂っていた篠藪は、ものの見事に全て刈り取られていたのである。そこは猫たちの隠れ家だったのだ。暫く、呆然とそこに立ち尽くしていた。もちろん、シロが何処に行ったかは全く見当が付かなかった。
 このような除草作業が今まで行われた事一度も無かった。多分、公園整備計画が変更になったのだろう。以後、シロの姿を見る事は二度と無かった。推測するに、大きなエンジン音に怯え、公園外に逃げてしまったのではないかと思う。
 その後、草刈り作業が終わり、一ヶ月位経つと、以前の猫たちの一部は戻って来たようだ。あの大きな茶虎も居たから。しかし、シロの姿は見えなかった。
 それから一度だけ、三ヶ月位後だったろうか、ある日、林の中に白猫が居るのを発見した。これはシロかも知れないと思い、思わず駆け寄った。シロなら、私を覚えている筈である。ところが、その白猫は身構え、近づくと、さっと遠くに走り去ってしまった。
 シロはとても利口な猫だったから、公園外の何処かで、きっと生きていると思う。



   本屋
 以前はよく月刊雑誌を買ってきたものだ。だから部屋の本棚には、それが今も所狭しと積んである。しかし、退職して二年位からは、もう雑誌は買う事は無くなった。全て立ち読みで済ましている。また立ち読みで十分に済んでしまう。
 本を買わなくなった理由は、年金生活だから、それも無意識にはあるもかも知れない。しかし、それ以上に、わざわざ買って自宅の部屋に持ち帰り、そこでゆっくりと読みたいと言う記事が無くなったのが、最大の理由である。
 大体、五分もあれば、もう内容の大方は推定が付いてしまう。であれば、買う気持ちも消失してしまう。
 本が売れない時代だという。もう私を含めて本を買う人は、どんどん減少していくと思う。要するに、売れない原因はつまらない小説、つまらない論文ばかりだからである。もちろん、それは私個人の感覚であるが、他の大勢の人も似たような感想を持っていると思う。 作家は、書く興味よりも一枚でも原稿を多くして、生活のために原稿料を稼ごうという魂胆になっているから、何の新鮮味みも無い。評論家は彼方此方から集めたニュースを受け売りしているだけである。自ら現地に行き、確かめたものなど一つも無い。
 経済評論家の予想が当たった例しがないのは、もう落語以下である。自分の予想が少しも当たらなくても、また平気で原稿を書いている。こんな輩は鉄面皮でも表現しきれない。
 大体、作家は一生に三冊程度書けば、それで終わりだと思う。多くて10冊。それ以上は、単なる水増しである。余り小説家の本を読んだ事は無いけれど、例えば、渡辺淳一氏の本で読んで良いのは初期の本だけである。後のは全て焼き直しである。前立腺癌を病んでいたようだが、晩年の本は書かない方が良かった。無理に書く材料を見つけてきて、本にしたという感じがあった。まあ、医療費等の生活のためかもしれないが、自らを貶めるような作品は愛読者とすれば、見たくもなかった。もちろん、書店で立ち読みし、すぐに棚に戻した事は言うまでもない。
 それにしても、渡辺氏の作品は男女の交わりか細かく書かれていて、如何にも小説らしかった。私はそんな小説が好きである。小説は寝転がって読むものと思っているからだ。数学の本とは違う。電気工学の本とも違う。小説で人生を考えるのは良いけれど、あんまし深刻に考えるのは表面に出さないで欲しい。読んだ後で、人生を考えるような契機になる小説が良いと思う。小説自身は軽く行きたいものだ。とは言え、そうなるには、その小説がやはり本質を備えていなければならないだろう。
 暇な時は、いや、いつでも暇なのだが、大抵は、紀伊國屋書店に行く。此処が今のところ、前橋では最大の書籍数を有していると思うからである。行くと、ベンチに多くの老人が本を抱えて、居眠りをしている。此処は、安眠室なのである。こう言った人達は恐らく、私同様、本は買わないだろうと思う。ベンチを置いている本屋は好意的過ぎると思う。  私の立ち読みコースは、まず週刊誌コーナー、それから月刊誌、すぐ側の文庫本。それから、少し移動して政治経済のコーナー。以前は、S氏の本を買っていた時期もあったが、今はもう皆無となった。氏の本は繰り返しに過ぎないと分かってからは買わなくなった。 いくら本が精密に書かれていても余り意味は無い。調べればいくらでも精密には書ける。大事なのはご自分の思想を開陳する事である。
 月刊誌Aも以前は対談記事が好きで買っていたが、今は買わない。立ち読み五分で済んでしまう。Z氏の弁はなかなか良いが、対談相手が他者本の受け売りばかりで退屈である。こう言う人こそ、沢山の本を読めば読むほど馬鹿になる典型なのだと思う。先ほど述べたが、ご自分の思想が皆無である。自分の思想を展開できない人の論説は読む価値も何も無い。
 さて、その後は、電気、パソコンのコーナーに行く。しかし、最近はもう参考にする書籍は無くなった。言語はもう十分だし、マイコンは用途が限定されているから、それが済んでしまうと、もう応用の域は殆ど無い。マイコンは専用であるから、逆に応用の範囲は限られているのである。その点、パソコンは汎用でどんな事にも一応、対応できるから、遊びの範囲も広い。
 本屋を出ると、昼時なら、二階の食堂に行く。そうで無ければ、ケーズデンキに行き、何か新しい製品が発売されたか、確かめに行く。それはパソコンだけで無く、全ての電気製品を見る。見てないと、忽ち、新しい流れに乗り遅れてしまうからだ。四十代の頃、5年ほどパソコンから離れていたら、戻って来た時、全くの新人になっていたのを今も忘れては居ない。技術の進歩は激烈である。
 さて、もう今は、若い綺麗な女性と全く縁が無くなった歳になったが、それでも興味が無い訳では無い。本屋に魅力的な女性が来ないかなと思う時があるが、残念な事に今までそんな女性には会った事が無い。
 本屋に若い綺麗な桜を用意すれば、客が増えて、本が少しは売れるようになると思う。正に最後の切り札であり、顧客動員の最善策だと思うが、それは老人の愚かな策であろうか。書店社長の考えを聞きたいものだ。



  難聴
 69歳の夏、急に聴力が低下した。原因として思い当たるのは二つ。一つは長年煩って来た扁桃腺炎。これは50歳位まで炎症を繰り返していた。昔から、喉と鼻と耳は繋がっていると、よく聞かされたものである。その通りだった。扁桃腺炎で喉が悪いから、結局、鼻と耳に不具合が出て来たのである。もう一つは52歳頃からの耳鳴り。耳鳴りはやがては難聴に繋がると文献に書いてあった。
 今は、テレビの音声が、やっと聞こえる位、日常会話が何とか、通じる程度。もう仕事をしていないので、特に支障は無いが、それでも不便は不便だ。
 特に、心配なのが歩いている時である。後ろから車が至近距離に来ても全くそのエンジン音が聞こえないのだ。短気なドライバーだと、クラクションを鳴らされることがある。さすがにクラクションは聞こえる。だから、散歩のときは必ず右側を歩くようにしている。こうすると、対向車を見ることが出来るし、後ろから来る車はすぐそばを通過することはないので、かなり安全を確保できるのだ。
 スーパーなど騒がしい処で聞こえない時は、すぐに手を耳に添えて難聴者であることを相手に知らせると、それなりの配慮をしてくれるので、今のところ、どこでも一人で対応できる。しかし、もっと歳を取れば、どうなるか、分からない。
 医者に行って、二度、怒鳴られたことがある。私が返事をしないので、無視されたと誤解して医者が怒ったのである。一人は老医者、もう一人は歯科医。もちろん、その日以降、行かなくなった。今通っている医者は難聴者に適切な対応をしてくれる中年の人で、大変ありがたい。
 それにしても晩年、まさか、自分が耳の遠い老人役を演じることになるとは予想もしていなかった。とは言え、父も母も死ぬまで、耳が聞こえないということはなかったから、まあ、私もそんなにはひどくならないと楽観している。母はすごく耳は良かった。父は多少、90歳を超えると、悪かったが。
 癪に障るのは、雨などが降り始めた時、老妻が、雨が降り出したよ、かなり音がしているよ、などと、これ聞こえよがしに呟くことである。私に勝るものが何も無いので、唯一勝る聴力で、難聴老人を馬鹿にするのである。最近はもう慣れたから、黙って無視している。 それと難聴になる前は全く気づかなかったが、音楽を聞いても雑音にしか聞こえないことである。これはこれで、なかなか悲しいことである。
 若い時は、こんな世界があるとは夢にも想像できなかった。若い時に聞いた映画音楽を聴いても、あの名曲は聞こえて来ないのである。難聴の悲哀は、此処が最大かも知れない。音楽を聴けなくなって、初めて音楽の価値を知った。
 仕方ないから、音楽を聴きたい時は、自分で口ずさむのである。闘牛士を聞きたくなったら、自分の口で演奏するのである。自分の声だけは骨伝導ではっきりと聞こえるから、懐かしい音楽を聴くことが出来る。
 老人になると、やれやれである。今まで気づかなかった世界を厭でも見ることになるからだ。これから、更に高齢者の世界がやってくると、また新たな状況に遭遇することになるのだろう。いや、待て、高齢になるまで生きていないかも知れないから、つまらん取り越し苦労は止めておこう。
 先日、無線をヘットフォーンで聞いていたら、どうも何か聞こえ具合が異常だった。それで、片耳ずつ聞こえを確かめたら、何と驚いた事に、右耳にいくら強くヘッドフォーンを押し当てても、何の音もしなかった。
 右耳が完全に聴力を失っていたのである。信じられなかったが、とうとう完全聴力障害者になっていたのだ。すごいショックだった。今まで聞こえが悪かったが、聴力障害者だと思った事は一度も無い。しかし、遂に自分は完全な障害者になってしまったのである。 深い落胆に沈んで行く自分を見た。
 慌てて、左耳にヘッドフォーンを押し当てた。左は何とか聞こえる。幸い、左耳はまだ大丈夫のようだ。それにしても、いよいよ身体機能が崩壊し始めた事は確かである。  そこで、ふと気づいた。いくら何でも全くの無音と言うのは極端だろう。もう一度、右耳にヘッドフォーンを当てて、試しにボリュームをかなり上げてみた。しかし、何も聞こえない。更にあげてみた。もう最大である。しかし、何も聞こえない。これは、やはり完全に聴力を失ったのだ。
 それでも、もしかしてと思い、コネクタを強く押してみた。途端に、耳が壊れるような大声が聞こえた。何とコネクタの接触不良だった。
 全く聞こえない事と、難聴とは大きな違いがある事を初めて知った次第である。難聴でも、少しでも聞こえるのなら、まだまだ幸せだと言う事である。



  梅の酢漬け
 今年もまた新梅の季節となった。痛風になってから、色々と食べる物に気をつけるようになり、食に関する様々な文献を漁った事がある。中でも、梅の実はクエン酸を含み、疲労回復に最適で、また体をアルカリ性にするとの指摘があった。
 梅は大好きで、子供の頃、塩漬けの梅を、その季節になると、テーブルの上に5個も6個も並べて一度に食べてしまうのが、いつものことだった。それで、また梅の実を漬けてみようかと思ったが、生憎、歳を取ってから、腎臓機能が低下していた。腎臓に塩は大敵である。それで、塩漬けは止めて酢漬けにした。本格的に沢山漬けるようになったのは5年位前であろうか。
 確かに、毎日、朝飯の時に食べるようになってから、気のせいかも知れないが、余り疲れないようになった。昔の人が言うのだから、やはり効き目はあるのだろう。
 最初は南高梅など大粒で高価な梅を買っていた。それは大きい梅の方が見栄えが良かったからてある。しかし、大粒の梅は毎日食べるには大きすぎた。それで、次の年からは小梅を主体に残りは群馬の中位の梅にした。
 作り方は全くの自己流である。買ってきた小梅を水洗いして、それを瓶に入れ、酢を流し込むだけである。保存ビンは5リットル、小梅は3キロ、酢は2リットルで丁度良い組み合わせとなる。心配なのは不要な雑菌、カビだが、よく洗い、腐りかけた梅を除去しておけば、今まで失敗する事は無かった。料理の本に依れば、酒で消毒できるとあったが、面倒なので実行した事は無い。
 さて、私が小さい頃、母親が漬けた梅を陽の下に晒して梅干しを作っていた。あれは、秋口頃だったのだろうか。戦後の何も無い時代で食べるものがなかったから、その梅干しを幾つか掴み、腹の足しにした記憶がある。その干した梅には今では考えられないほど大量の塩が付いていた。不思議に思うのは、昔の人はそんな高濃度の塩梅を食べていて、それほど不健康でも無かったのはどう言うことだろうか。 
 梅の実の思い出は他にもある。
 近所に相当広い庭の旧い邸宅があった。一応、板塀はあったが、彼方此方破れていたので、近所の子供達は勝手に出入りしていた。昔の人は、おおらかで文句などは言わなかった。今は、他人の家の庭に黙って入ったら、不審に思われるか、意地悪な家なら、警察に通報されるかも知れない。
 それで、その広い庭の邸宅に近所の子供が、毎日のように大勢集まって遊んでいた。 その家の住人はどう思っていたか知らないが、いわば私設の公園みたいなものだった。 広い庭に色んな樹木が生えていたが、大きな梅の木が北と南に数本ずつあったように思う。それで、梅の実がなる頃になると、子供達がお互いの陣地を作り、梅の実を投げ合って合戦をするのである。自陣に火の付いた蝋燭を立てておいて、それを梅の実で当てて倒した方が勝ちというゲームである。庭の梅をもぎ取り、それを大量に投げ合った。
 なかなか面白くて小さな子供から大きな子供まで夢中になって投げ合ったものである。
 今思うと、不思議なのは、それでも文句を言われた記憶が無いのである。食べられる梅の実を駄目にしてしまう訳だから、その家人から、いくら戦後でも文句が出て、当然のところである。しかし、文句や怒られた経験は一度も無い。
 それから、数年して、私が小学校の高学年の頃、その広大な土地を、ある富裕な銀行家が買い取り、周辺の家とは段違いの豪邸を建てた。豪邸は出来たが、周りの塀は昔の破れ塀のままだった。すぐには工事が出来なかったようだ。
 ある日、私は年下の友達を連れて、いつものように、無断で庭に入って遊ぼうとした。すると、声がかかった。偶に見る豪邸の主だった。恰幅の良い如何にも金持ちの人だった。噂に依れば、東京から来たと言う。その人はゆっくりと子供の方に近づいてきた。
「なんで入ってくるの。ここは君の家じゃあないんだよ」
 低い穏やかな声だった。怒っては居ないようだ。しかし、私はひどく怒られていると感じた。それで、すぐに連れの子に声を掛けて、そこから離れた。他人様の庭に入っていけない事を初めて知ったのだ。生まれて初めてのカルチャーショックだった。 
 それから、また数年すると、街全体に新しい家が建ち、完全な塀も作られるようになった。もう、その頃になると、他人の庭に勝手に入るような子供は一人も居なくなった。そうして、私が高校生位になると、何処の家でも門や玄関の鍵は固く閉められるようになった。
 今思えば、その頃、全員貧乏で暮らしに差が無く、近所が一緒になって生きていた戦後は終わったのである。それからは、塀を隔てて隣り合う、すぐ近所の家でさえも、知ってるいるのは名前位で、後は何も分からなくなった。
 私が、現在、住んでいるのは前橋の北部の住宅街である。すぐ東の人は名前は知っているが、この40年間一度も話した事も見た事も無い。付き合いがあるのは北と南の家だけである。それも必要最小限でしか無い。
 貧困の戦後から見事に立ち直り、経済大国になった日本だが、梅の実から思いを巡らせると、戦後、間違いなく豊かにはなったが、どうも何かを失ってしまった気がする。よく言われる地域の繋がりも、その一つだろうが、私には、もっと人間的根源的なものを失った気がしてならない。

*********************************************************************************************